■寛永長崎港図(福砂屋創業の地は引地町。六代のときに船大工町に移転)
(福砂屋カステラ読本より)
福砂屋の当主は、初代~五代まで、引地町に店舗を構えていたと思われます。引地町は、「岬の教会」があった場所(江戸町にあった旧長崎県庁から市役所へ向かうあたり)の東南側の崖下、港に続く細長い岬の辺りで、「六町」に始まる「内町」に近い町でした。
初代の頃の店舗の場所については、江戸時代の老舗の商標や引札などを収集して記録した『諸国板行帖』に貼りつけられてある福砂屋の札を見ると、引地町を創業の地としたようである。
■福砂屋の札(天理大学付属天理図書館蔵)
(福砂屋カステラ読本より)
寛永の頃、船大工町は新船大工町といい、近くの館内町には、1689年(元禄2年)に唐人屋敷が出来て、ますます賑わいをみせていました。1770年代になると、南蛮菓子も定着。福砂屋は六代目市良次の代となったこの頃、市中の発展と共に引地町から、現在の船大工町に移転し、菓子商の誇りにかけて、カステラ作りにいっそう力を入れていきます。
船大工町は、現在の思案橋の近く。船大工町から長崎丸山遊郭へ向かう辺りに思案橋と思い切り橋の二つの橋がありました。遊郭を前にして「行こうか、戻ろうかの思案橋、あきらめて帰る思い切り橋」と言われており、人の往来も多かったようです。丸山の入口は、山ノ口と呼ばれていて、福砂屋は以後、「山ノ口、福砂屋」と称しました。
明治時代のカステラづくりの繁栄を表す絵や文献も今に残されています。
まず、1885年(明治18年)の『商工技芸崎陽之魁』は、長崎の著名な商店を全国に紹介するために編集された銘店図鑑で、明治時代初期の福砂屋の様子が細かに描かれています。
もうひとつが1890年(明治23年)刊行の『増補再版新々長崎美やげ』。長崎の新聞創刊の草分けで東洋日の出新聞」をつくった鈴木力の著です。
■『商工技芸崎陽之魁』1885(明治18年)年刊行 泉亀吉編集 川崎源太郎発行
(福砂屋カステラ読本より)
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