福砂屋では初代以来「福」の字を登録商標としていましたが、12代清太郎が、新しい商標として「蝙蝠」の商標を定めました。様々な特製カステラを考案する中、清太郎は長崎を代表する菓子としてカステラを育てたいという思いをこめて、商標に蝙蝠を選んだのだといいます。
砂糖を始めとする物資を仲介し、中国と長崎は絶えることのない交流がありました。その中国で「蝙蝠」は慶事、幸運のしるしとして尊重されているのです。
また、カステラは滋養食でもあるので、中国の故事にもとづき「不老仙菓」つまり、コレを食べていれば老いることのない菓子として位置づけられていたということも理由のひとつにあげられます。
長崎の唐寺として有名な崇福寺のすすめもあったそうです。
なお、中国では、蝙蝠の「蝠」の字は「福」と同様に「フウ」と発音するので、非常におめでたいとされています。五匹の蝙蝠を描いた物は「五福」と呼ばれ、「長寿、富、貴、康寧、子孫衆多」の象徴とされています。
また、蝙蝠と同様に「桃」も中国ではおめでたいものの一つです。
■崇福寺の巨釜
(福砂屋カステラ読本より)
福砂屋は、1682年(天和2年)、長崎地方の大飢饉の折、崇福寺へ米を寄進しています。
崇福寺は興福寺、福済寺と並んで、いわゆる唐三箇寺と呼ばれ、福州の僧、超然が開きました。これらの寺は、中国を故郷とする者の拠り所として建てられましたが、厳しいキリシタン禁制の中にあって、仏教徒であることを示す寺でもありました。
崇福寺では、国宝の本堂、大雄宝殿の右手前に、今も大釜を見ることができます。これが、1682年(天和2年)、長崎地方の大飢饉の際に、二代住職の唐僧千凱が、自ら托鉢し、人々に施粥(せしゅく)を行ったといわれる大釜です。
崇福寺の古文書によると、この施粥に際し、米も商っていた福砂屋が、前年から続いていた飢饉を見かねて32俵もの米を寄進したといいます。
この米寄進に応えて、崇福寺は蝙蝠を福砂屋に授けたともいわれています。
また、同じく唐三箇寺のひとつである福済寺には、三代市左衛門が供養塔を寄進しています。
福砂屋の歴史にも、第二次世界大戦の戦中、戦後には空白の時代がありました。原料の卵、小麦粉などが手に入らずカステラが作れなかったのです。1940年頃から終戦までは、軍事物資である乾パンの製造をしていました。
カステラの製造再開は、昭和24年、天皇陛下長崎御臨幸の折に、幣舗のカステラを献上させていただくことになったことを機に実現しました。まだまだ物資の乏しい時代のこと、材料が揃わず、卵と砂糖の調達には、長崎県の多大な尽力がありました。そうして、戦後第一号のカステラを焼き上げるに至ったのです。
現在の福砂屋本店は、船大工町に店を構えています。船大工町の町名は船を修理する船大工さんのいる町という意味。その名のとおり多くの船大工が住んでいました。寛永の末(1643年)頃町名は新船大工町から船大工町に改められ、現在に至っています。
長崎名物の市電が走る春雨通りに思案橋があり、丸山公園をめざして歩いていくと船大工町です。
福砂屋のカステラは、いつの世も長崎の町と人と、歴史と共に歩んでまいりました。
本店は、明治初期の建築です。筆文字で力強く書かれた福砂屋の大きな長暖簾、蝙蝠を染め抜いた小さな暖簾。白壁に格子、当時の輸入レンガタイル、瓦屋根など、貴重な材を使って質の高い職人の手による技を大切に手当を施し、百年余を経た商家のたたずまいを守るのも「のれんに培われた味と、手作りカステラの伝統を守る」という弊舗の意志を表しているものです。
長崎カステラは、東西文化の出会いの結実でもあります。私どもは、これからもこの長崎の地で「手わざ」にこだわりながら、長崎カステラ独特の伝統の風味を守り続けていきたいと思っております。